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水害と火災

 

エピソード紹介

 

 

  味噌作り・醤油づくりは、毎年違う自然と向き合い毎年違う大地の恵みより味を均一化させるのが仕事です。

「いつもと同じ」が安心を生み、これを続けることが「懐かしさ」を生む。私たちの製品が地元に愛される理由がここにあります。

上手に付き合っていきたい「自然」が私たちに牙をむくことがあります。大黒醤油のある岩手県軽米町にもありました。平成1110月下旬、紅葉も深まり冬支度が始まる季節でした。

 

皆さまに支えられていることを肌身にしみたことはこれ以上ない、と感じたふたつの出来事が、今の大黒醤油の製品に息づいております。
社長とおかみの言葉で紹介させてください。

 

 こんな方が来ました。あんな事がありました。
私たちが事業を営む中で、様々な出会いや出来事がありました。

その中からとっておきのエピソードを紹介します。

 ある日、それまで取引いただいておりました企業さんがお歳暮を持ってきました。
ありがたく頂戴し中を開けるとそこには別の会社の味噌・醤油が!(笑)

 またまたある日、社長宅に飛び込みの営業の方がいらっしゃいまして、
どうやら売り物はお醤油だったようで(またか!笑)
それを遠目に見ていたお向かいのおばぁさんが、


おめ(あなた)、どごさ(営業に)来てらど思ってんだ!こごは醤油屋だぞ!

って追い払った…
というおばぁさんの武勇伝を後から聞かされたことがありました。

 物産展では「おたくの「ひえ味噌」のおかげで健康でいられる。ありがとう!」なんてお声をかけていただいたり、毎年恒例の「味噌作り体験」では参加者の方から「もうこの味噌以外は食べられない」と常連化される方が増えたりと、本当にありがたいなぁと感じることがあります。

 

総雨量は230ミリに

 

平成111028日、発達した低気圧の接近に伴う豪雨が町を襲いました。

27日から降り始めた雨は、28日午前6時から7時には時間雨量29.5ミリを記録。

 一時的に沈静化したものの、再び雨足を強め、同日午前10時から11時には時間雨量30.5ミリに達し、町中の河川をはんらんさせました

 この豪雨による総雨量は230ミリ。町の年平均降水量の、約四分の一の雨が一日で降った計算になります。

 この雨で雪谷川ダムが満水となり溢れ出し、水は急激に増水。流木やゴミなどが昭和橋に引っかかりダム状態になり、向川原地区をはじめ町中心部をあっという間に飲み込みました。

「広報かるまい11」平成21年(2009年) No.608 特集「防災」より抜粋~

 

「平成1110月の悪夢の水害」

社長より

平成111028日、町に緊急の放送が響き渡りました。

 前日からの大雨で、このままだとダムが壊れてしまうため、放流するから至急避難しろ!というのです。

 まさかとは思いながらも、現金・印鑑・大事な帳簿・PCのデータ、車に詰めるだけ詰め避難しました。

 ものの15分位でしょうか?あっという間に会社のすぐ後ろの川がみるみるうちに、増水して迫ってきたのです。

 あわてて私は川の反対側の実家に父母と祖母を向かえに行ったのですが、逃げ遅れてしまい、一晩川の中の家(2階)に閉じ込められてしまいました。おかみの妻と子供は避難しており、私達を心配して役場に詰めていたとのことでした。

 携帯電話もつながらず、安否がわからなく私達は不明者として役場の黒板に名前が書かれていたとのこと。1階はすっかり浸水しているようでした。窓から外を見ると、壊れた家の壁やタイヤなどが流れていくのがわかりました。たまたま、お盆の菓子などが2階にあり、それで空腹は避けられましたが、食欲などある訳がありません。

 朝になり、外がやっと見えました。戦場のようでした。家の中は、冷蔵庫も倒れ、まるで沈没した船の中のようでした。

 朝には、水はだいぶ引いていましたが、泥でうまく歩けないほどでしたが、急いで会社に向かい、愕然としました。長年大事にしてきた製品、秋の仕込みで前日仕入れたばかりの大豆や麦が・・全滅です。

 妻が来ました。私たちは、涙も出ないほど、途方にくれましたが、間もなく、友人がニュースを見たと長靴とスコップを持ち、来てくれました。

 先輩、私達の友人、子供の学校の先生、次々と片付けてくれ、私達は、それにつられて片付け始めたのでした。毎日、嘘のように静かに流れる川を眺め眺めながら、泥かきが続きました。

 お正月を2回プレハブ小屋で過ごし、会社は新築移転しました。

 

さぁ~がんばらねぇば!

 

「水害から6年目の秋」

社長より

水害での被害の尾もまだひきずりながらも、何とかここまで来たね~という矢先のこと。それは、子供の学習発表会の朝。子供達に直に行くからね~と見送って5分後。会社が火事だ!と電話が!!!

私は、家の電話の子機を握ったまま、トイレから飛び出し車を飛ばしました。会社まで10分弱、なんと長い道のりだったでしょう。さっき見送った子供達の登校班の列を追い越した時、町に火事発生の放送が流れていたようでした。

後で知りましたが、長男(当時4年生)は、私と妻の車が飛ばして行ったことで、家の会社が火事だとその時悟ったそうです。

 

私達が着いた途端火柱が上がり、手の施し様がありませんでした。工場が全滅でした。妻は泣き叫びながらトラックを動かし、隣の事務所から物を運び出し、煙を吸ったのか嘔吐していました。もうダメだ…そう思いました。

 

後に知りました。4年生と2年生の子供たちは、今会社が燃えていると知っている中、発表会で発表していたそうです。どんなにか辛かったことでしょう。
ごめんね。

 

そんな中、発表会へ行くはずの父兄の方、社長の先輩・友人、お客様・・たくさんの方が来てくれました。

先輩は、「まだ、やんべや!あたりまぇだべ~!」と。

「えっ!?やるんですか?やれるんでしょうか?」

そこへ、町のスーパーの店長さんが来ました。

「大黒が火事だって~!?って言って、店内のここの商品を買い求めるお客さんで、一気に商品がなくなったぞ!」と。でも…

 

水害の被害もまだひきずっている中の火事で、再建などもう無理だと思っている中、次の日から続々と片付けに来て下さる方々がそこにいました。味噌蔵が無事だったこともあり、次の日からトラックは配達に出ました。営業マンは、皆さんに止められ、励まして頂き、買っていただいたとのことでした。

毎日毎日ガラスの破片や釘を拾い、時に妻は長靴から足に釘が刺さり、涙がとまらない様子でした。

どうして、こんな目にばかり合うのだ。

そう何回口にしたでしょう。

でも、周りの方々の動きに私達は流され、再建へ向かっていきました。

寒い冬の間、工場の建築は急ピッチでして頂けました。機械などは、とても新品は買えません。廃業したという同業者はじめ、本当にたくさんの方々にご協力いただき、お譲りいただいた機械や樽などで、準備は整い、工場再開にこぎつけたのです。初めて、新工場の蒸し釜が動いた時には、感動しました。

 

 

皆様に支えられ

醤油の仕込みの時、炒った麦の香りで会社は包まれます。とてもいい香りです。その度に、あの男子学生さんが、「あ~うまそうな匂い!」と言って、工場前を自転車で通って行ったことを思い出します。
度重なる災難に見舞われながらも、再建を決意することができ、こうしてこの香りに包まれていることは、当社の醤油・味噌がお客さまはじめ、大勢の方々に愛されているからこそです。

それを励みに、これからも日々、精進してまいります。よろしくお願い申しあげます。