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おかみのフリーページ

2022-10-28 15:49:00

~坂本都多子(おかみ)~誕生からの回想 (18歳~施設職員時代)

高校卒業後、軽米町内の重度身体障碍者施設 太陽荘の寮母として5年間、お世話をさせていただきました。

夜勤明けの公休は、夏は海水浴・冬は安比高原でスキーに明け暮れた。今でも交流のある当時からの仲良しもいるほど、楽しい時代だった。

よく、入所者のおじいさんとも、マジで喧嘩したものだ。しまいに言われるのが、

あんだ~きっかねぇ~な~wwwwww でも、なぜか、また、寮母さん!とその方に呼ばれる(; ・`д・´)

なぜ、私を呼ぶ~!!!((´∀`))ケラケラ

ここでも、自由で元気いっぱいの当時の私がわかる写真がある。

IMG_8200.jpg  IMG_8199.jpg IMG_8192.jpgIMG_8193.jpg

なんによじ登ろうとしているのか。入所者の方に付き添っているのか、付き添ってもらっているのか?www上の写真は~確か、動物園に行った時の写真。われ先に見ようという職員www

当時は、時間内に仕事をこなすことで頭がいっぱいだった。介護される年齢に近くなってきた(?)最近よく思うのは、もっと写真の若い入所者の方たちも、お化粧やヘアスタイルやネイルなどしたかっただろうな~ということである。当時は、余裕がなかったし、気が付かなかったのだ。

多少、油絵も趣味である。これは、下写真の右端のひざ掛けをしている三上さんが、手に装具をつけて筆を挟み、油絵をされていて、時々、色を出してあげていたことが、きっかけだ。三上さんの絵は、独創的で細かなところも丁寧に描かれていて、綺麗だった。もともと絵をかくのが好きだったので、小さい時から着せ替え人形や、お絵かきをして留守番をしていた。これらが、今のネイルを始めたことに繋がっている。それは、のちほど。

施設の仕事は、仕事という感覚ではなく、一緒に日々を過ごしているという感覚だった。当時は、介護福祉士という資格は、まだなく、23歳で退職するあたりにできた資格だ。当時、勉強したくなくて、すすめられたが退職するし~ということで取得しなかった。毎日が、とても楽しく過ごせた施設職員の時代だった。

2021-06-23 10:27:00

~坂本都多子(おかみ)~誕生からの回想 (誕生~高校時代)

嫁いで間もなく大黒醤油に入社。3代目となり、醸造についてはもちろんのこと、それまで介護の仕事しかしてこなかった私にとっては、事

務・税理などチンプンカンプン。すべてが手さぐりで、二人の息子も育てながら毎日奮闘。そして2度の災害。

今度はコロナという災害。。。これに遭遇して人生を振り返ってみることが多くなりました。

これまで、会社の取材などには、ほとん出ることなく参りましたが、日々のつぶやきや、写真などとともに、自身の人生の回想を第1話、2

 

話・・・という形で綴っていきたいと思います。

 

ツタコ 2.jpg

 坂本 都多子

 

第一話 誕生~小学生

 

1968年(昭和43年)28日、岩手県九戸郡軽米町の木炭業・農家の家庭に生まれる。

 

なんと4,300というナイスバディww(ちなみに現在より数年前、病院で骨密度が高すぎて測定不能。かなり頑丈である)

 

二人の兄と祖父母・父母と7人家族ですくすく育った。よだれが半端なく、眠ってばかりいたと母から聞いている。

 

写真の通り、はち切れんばかりのお顔ですね~(他人事ww)

 

IMG_7434.jpgIMG_7442.jpgIMG_7446.jpgIMG_7444.jpg

 

 

母親は、今考えると厳格だったと思う。

物心ついた時から、朝起きたらすぐに、外に出て髪をとくこと、家中に掃除機をかけることが私の仕事になっていたのだ。

台所の床の水拭きも毎日のようにやらされた。のちに語るが、これが、私の人格形成に大きく影響していったのである。

やらなければならないという責任感と縛り、潔癖症。

小学生高学年の時、仲間外れの様な感じを受けていたが、とにかく腕白で怖いもの知らず。ぜんぜん、そんなもの怖くなく、へっちゃら

だった。男子がなにかしようものならキックを入れる、自称 正義感あふれる女子。しかし、本当のところは、ただの短気な思い込みの

激しい(正義感は強かった)ワガママな子供だったと、今は思う。ある日、同級生女子が、なんとなくではなく、仲間外れにしているの

だと教えてくれた。そして、その理由は、私の傍若無人ぶりを自覚させるために相談してやっている同級生の愛のムチだとのことだっ

た。私には大いに自覚はあったw

教室の自分の椅子に誰かが座っただけで、ものすごく腹が立ち、手で椅子をはらっていた。こういうのは、実際のところ、神経質で自分 

も疲れるものである。そう、極度の神経質だったのだ。

「少しの間、無視されても怒らないで、我慢してて」そう友達に言われてから、間もなく、みんなの輪に戻ることができた。

その幼馴染の同級生全員に、ずっと感謝している。

当時は、色々と「ごめんなさい」そして「ありがとう」www

 

そうそう、私のワガママっぷりがよくわかる写真がある。

                 ツタコ 遠足.jpg

 

お分かりいただけるでしょうか((´))ケラケラ

 

私だけ、みんなと格好が明らかにちがーうww

 

母親が、今日は遠足で山に行くのだから、虫に刺されたりしないようスカートはやめろと何度言っても聞かなかったのだ。

 

この時の私の一番のお気に入りの黄色いフリルのブラウスと真っ赤なプリーツスカートを着て行ったのである。

 

ただの、あほう ですねww

 

そして、母親にそろそろ言われ始めたのが、

 

お前は、我が強い。怒るな、言うな、我慢しろ。我が強い、我が強い、、、、、、、、、

 

これもまた、大いに、人格形成に関わっていく。

 

今では大変うらやましい程のポジティブ思考と明るく活発であった。人の気持ちに気づかず、いつも幸せいっぱいだった(?)笑笑

 

でも、それは、小学時代まで。                         

 

 

第二話 中学時代

中学に入り、バレーボール部入部。これが私の全青春となるww

当初は、一年生の頃は、外のコートで埃まみれで傷だらけになって練習をした

明けても暮れてもバレーボールしか頭にない((´))ケラケラ 

しかし、ここでは、多数の上級生女子のイジメにあった。幸せなことに、同級生と先生、上級生男子に助けられながら、なんとか過ごせた。最終的には、女子先輩が卒業の際に、丁寧に謝ってくれて、その後の高校生活では仲良くしてくれた。辛くもあったし、楽しくもあった中学時代だった

写真は唯一、修学旅行での一枚。皇居で撮った写真である

一番後ろの女子列一番左が私。三年生以外はスカートをはいてはいけない的な暗黙のなんちゃら?で全員がズボンである。今みると大うけである((´∀`*))

最近わかったが、この場所、父母と行った思い出の場所で全く同じ場所だ

この頃も性格は相変わらず、気性は激しく、喜怒哀楽が激しいかなりの大物にみられた(自覚の範囲ww)

 

 

 

 IMG_9057.jpg 中学修学旅行      ツタコ 皇居.jpgちょっと大きめの3歳の頃ww

 

 

第3話 高校時代 軽米高校

さーて、いよいよバレーボールきちがいの高校時代ですww 

軽米高校排球部4番センターでした~(^^♪ 

朝はバスケットボールでパス練習、日中はデスクにほおずりし、テスト用紙をよだれで汚して先生に頭を叩かれ(*`艸´)、とにかくバレーが好き。

試合で負けた日の晩は悔しくて、

風邪をひいて明日は学校を休んでやる!と屋根の上に寝たものだ。

がwww それでも熱など出ない、すこぶる健やかに目を覚ますのだったww

今でも忘れられない場面は、県大会で見事なクイックを決め会場から 

 

「お~!!!」

 

と歓声。その直後の自分のサーブを失敗し、会場から 

 

「あ~!( ノД`)」

 

という非情な声(ノД`)・゜・。あるあるのシーンだが、本当に聞きたくないものだww

IMG_9053.jpgIMG_9056.jpg前から2列目左から5番目

 

 

高校時代もイジメにあっていた。でも同級生はみんな仲良かったので、そんなに悩むことなく過ごせた

特に2番セッターのんちゃんとは今もお付き合いしている。大の仲良しである

 

 

 

 

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